ANMELDEN翌朝、神崎冬真は目覚まし時計が鳴るより先に目を覚ました。
寒かったからだ。
掛け布団の中にいるのに、頬に触れる空気が冷たい。寝ぼけたまま枕元のスマートフォンを手探りで取り、時刻を確認すると午前五時四十八分だった。
六月四日。
画面の天気表示には「東京都心 現在気温5.8℃」と出ている。
「本当に六月かよ……」
冬真は布団の中で呟いた。
昨夜は暖房をつけずに寝た。六月に暖房を入れるという行為に、どうしても妙な抵抗があったからだ。
結果として寒さで目が覚めたのだから、意地を張った意味はほとんどない。
ベッドから出ると、裸足の足裏に床の冷たさが伝わってくる。
カーテンを開けると、空は鉛色だった。
昨夜の霰は積もってはいない。ただ、ベランダの手すりには薄く水滴が残り、それがところどころ白く凍っていた。
冬真はしばらく手すりを眺めた。
六月の東京。
早朝とはいえ、屋外に氷が残っている。
「……いや、やっぱりおかしいだろ」
昨日も同じことを思ったが、一晩寝たところで状況は改善していなかった。
テレビをつける。
朝の情報番組では、司会者が厚手のジャケットを着ていた。
『さて、全国的に季節外れの寒さが続いています。東京都心では今朝、六月としては観測史上最低水準となる気温を記録しました』
気象予報士が画面脇に立ち、日本列島を覆う青い色を指している。
『上空に非常に強い寒気が流れ込んでいる影響ですが、今回の特徴は寒気がなかなか抜けないことです。ただし現時点では、週明け以降、徐々に平年並みへ戻る予想となっています』
「また週明けか」
冬真は苦笑した。
昨日は「来週には戻る」と言っていた。
今日は「週明け以降」。
大した違いではない。けれど微妙に言い方が変わっているのが気になった。
コーヒーを淹れようとして、冷蔵庫を開ける。
牛乳が少ない。
卵も残り三つ。
野菜室を見ると、キャベツが半玉と、しなびかけたニンジン一本、玉ねぎが二個。
母親に昨日頼まれた白菜のことを思い出した。
「帰りに買うか」
自分用の牛乳と卵もついでに買えばいい。
そんな、いつもと変わらない買い物のつもりだった。
会社では前日以上に海外からの連絡が増えていた。
午前中だけで北米支社から三件、ヨーロッパの取引先から二件。
冬真の担当する設備そのものが故障したわけではない。
気温が想定外に低下したことで、倉庫や工場の運用条件そのものが変わっている。
冷却を前提として設計された設備に、今度は加温が必要になる。
人間というのは妙なものだと冬真は思う。
十日前まで、顧客は「夏季の高温対策」について相談していた。
今年の猛暑に備えて冷却能力を上げたい。
冷凍機の負荷を下げたい。
電力使用量を抑えながら倉庫温度を維持したい。
それが今では、凍結防止ヒーターの追加設置について問い合わせている。
「神崎さん、ちょっといいですか」
柴田が椅子を滑らせて近づいてきた。
「どうした」
「北海道の客先からなんですけど、野菜の集荷予定がキャンセルになったらしくて、倉庫を一部止めたいって話が来てます」
「設備故障じゃなくて、物が来ないのか」
「みたいです。レタスとかキャベツとか、かなりやられてるらしいですよ。霜で」
冬真は画面から顔を上げた。
「この時期の北海道って、そんなに出荷量多かったっけ」
「詳しくは知りませんけど、担当者が『今年はもう予定がめちゃくちゃだ』って言ってました」
少し離れた席から佐倉が振り返った。
「野菜って、そんな簡単に駄目になるんですか?」
柴田が答える。
「俺に聞かれても困りますよ。農家じゃないんで」
「神崎さんは?」
「だから何で俺なら知ってると思うんだよ」
「何となくです。神崎さん、ホームセンターに売ってる物なら全部使い方知ってそうじゃないですか」
「そんな能力ないよ」
冬真は苦笑しながらも、頭の片隅に引っかかるものを感じていた。
昨日、母親は畑の支柱が折れたと言っていた。
だがそれ以外には特に何も言っていなかった。
昼休み。
社員食堂で定食を受け取った柴田が、野菜の小鉢を見て笑った。
「これ、来週には高級品になってたりして」
「縁起でもないこと言うなよ」
冬真が言うと、柴田は箸でほうれん草をつまんだ。
「でも、ニュース見ました? 野菜高騰だって。昨日まで百八十円だったキャベツが、場所によっちゃ五百円とか六百円とか」
佐倉が顔をしかめた。
「それは困る。私、最近ダイエットで野菜ばっかり食べてるのに」
「今のうちに肉食べといたらどうです?」
「何で逆に太らせようとするんですか」
「いや、野菜が高級品になるなら肉の方が安い時代が来るかもしれないじゃないですか」
「そんなわけないでしょう」
三人とも笑った。
笑いながら、冬真はスマートフォンを開いた。
ニュースには野菜価格の記事が増えていた。
キャベツ。
レタス。
トマト。
キュウリ。
葉物野菜。
寒さによる生育不良と霜害で、卸売価格が急騰している。
記事の最後には、農林関係者のコメントが掲載されていた。
『一時的な天候不順であり、気温が回復すれば供給は安定する見込み』
また同じだ。
一時的。
回復する。
見込み。
間違っているとは思わない。
専門家だって、未来が見えるわけではない。
しかし冬真には、そうした言葉が少しずつ増えていることの方が気になった。
仕事を終えたのは午後六時半だった。
駅前のスーパーへ寄ると、入口から妙に人が多い。
「特売日だったか?」
独り言を言いながら中へ入る。
すぐに違和感の理由が分かった。
野菜売り場だ。
いつもなら緑や赤、黄色で埋まっている棚が、今日はところどころ空白になっている。
レタスの棚には一つもない。
ほうれん草もない。
キュウリは三本入りで五百九十八円。
トマトは四個入りで千二百八十円。
「うそだろ」
冬真は値札を二度見した。
隣にいた高齢の女性も、同じようにトマトの値札を見ていた。
「昨日までこんな値段じゃなかったわよね?」
誰に話しかけたのか分からない。
冬真は一瞬迷ってから答えた。
「たぶん、もっと安かったと思います」
「そうでしょう? 私、いつもここで買ってるもの。これじゃあトマトじゃなくてお肉買った方が安いじゃない」
「そうですね」
「何なんでしょうねえ。寒いだけで、こんなことになるなんて」
女性は結局トマトを棚へ戻した。
冬真は白菜を探す。
あった。
ただし半玉で九百八十円。
「半分で千円……」
思わず声が出た。
その横で、四十代くらいの男性が店員に詰め寄っている。
「ちょっと、この値段おかしいだろ。昨日まで三百円くらいだったぞ」
若い店員は困った顔で頭を下げた。
「申し訳ございません。市場価格が急騰しておりまして、当店でも仕入れ値自体が上がっているんです」
「だからって三倍はないだろう。便乗値上げじゃないのか」
「いえ、そういうことでは……」
「じゃあ何でこんな値段になるんだよ」
「全国的に入荷量が減っているためでして、特に葉物野菜は今朝の段階で予定数の半分以下しか入っておりません」
「半分以下?」
「はい」
男の声が少し下がった。
「来週になれば戻るんだろ」
店員は一瞬だけ黙った。
ほんの一秒か二秒だった。
それでも冬真には、その間が妙に長く感じられた。
「現時点では、入荷予定がまだ確定しておりません」
「確定してないって、どういうことだよ」
「産地の状況によっては、数量制限をお願いする可能性もあります」
男は何か言いたそうに口を開いたが、結局舌打ちしてその場を離れた。
冬真は白菜を一つ手に取った。
九百八十円。
高い。
馬鹿馬鹿しいとも思う。
だが母親に頼まれていた。
買い物かごへ入れる。
次に自分用の牛乳を探す。
乳製品売り場はまだ普通だった。
ただ、卵売り場には「お一人様一パックまで」の札が出ていた。
「卵まで?」
後ろで若い夫婦らしき男女が話している。
「二パック買っとこうよ」
「一人一個って書いてあるだろ」
「だからあなたと私で二個買えばいいじゃん」
「そういう意味じゃないんじゃないか」
「でも明日もっと高くなるかもしれないよ」
「そんな大げさな」
「あなた昨日もそう言ってたじゃない。トマト見てよ、千円超えてるよ」
「トマト食べなくても死なないだろ」
「そういう話じゃないの」
妻らしい女性が苛立った。
「何でもそうやって『大丈夫、大丈夫』って言うけど、じゃあ本当に食べ物がなくなったらどうするの?」
「なくならないって。日本だぞ」
「日本だから何なの?」
「何なのって……政府だってあるし、スーパーだってこんなにあるし、外国から輸入すればいいだろ」
冬真は足を止めた。
外国から輸入すればいい。
それは確かにそうだ。
日本は多くの食料を海外から輸入している。
国内が不作なら外国から買えばいい。
何もおかしな話ではない。
だが昨日見たニュースが頭に浮かぶ。
アメリカ中西部の雪。
フランス。
ドイツ。
中国。
もし国内だけではなく、世界中で同じことが起きているなら。
そこまで考えて、冬真は自分で打ち消した。
「考えすぎだ」
誰にも聞こえない声で言った。
レジへ向かおうとしたところで、スマートフォンが鳴った。
母親だった。
「もしもし」
『今、仕事終わった?』
「終わったよ。スーパーにいる」
『ちょうどよかった。白菜、もういいよ』
「もうカゴに入れた」
『いくらだった?』
「半分で九百八十円」
電話の向こうが静かになった。
「母さん?」
『戻してきなさい』
「いや、頼まれたから買ったんだけど」
『そんな値段で白菜なんか買うことないよ。肉買えるじゃない』
「もう取ったし」
『戻せばいいでしょう。誰も怒らないよ』
「いや、そういう問題じゃなくて」
『いいから。千円も出して白菜食べたいほど贅沢な年寄りじゃないんだから』
母親らしい反応に、冬真は少し笑った。
「分かったよ。じゃあ戻す」
『そうして。それよりさ』
母親の声が少し変わった。
「何?」
『畑、ちょっと変なんだよ』
冬真は足を止めた。
「変って?」
『トマトの苗、昨日から葉っぱが黒くなってるって言ったっけ』
「聞いてない」
『言ったつもりだったけどねえ。朝見たら、ナスも駄目になってた。霜だと思う』
「六月に?」
『六月でも霜が降りれば霜だよ。昔も五月くらいなら遅霜はあったけど、六月にここまで冷えたのは私も覚えがないね』
冬真は野菜売り場を見た。
空いた棚。
値札。
品物を探して歩く客。
「畑、全部駄目なのか」
『全部じゃないよ。玉ねぎは大丈夫そうだし、ジャガイモもまだ分からない。ただ、夏野菜は相当厳しいかもしれないね』
「ビニールとか被せたら?」
『今夜やるつもり。でもこの寒さが何日も続くなら、それだけじゃどうにもならないよ』
母親は少し黙った。
『冬真』
「ん?」
『ニュースだと、来週には暖かくなるって言ってるね』
「言ってるな」
『本当だといいけどねえ』
その声に、いつもの軽さがなかった。
冬真は少し驚いた。
母親は基本的に楽観的な人間だった。
台風が来ても「昔はもっとすごかった」と言い、停電しても「ろうそくで十分」と笑う。
父親が亡くなったときですら、葬儀が終わるまで人前では一度も泣かなかった。
そんな母親が不安そうな声を出すのを、冬真は久しぶりに聞いた気がした。
「日曜、予定通り行くよ」
『無理しなくてもいいよ』
「支柱直すんだろ」
『それはそうなんだけど、寒いからね。車も気をつけなさいよ』
「分かった」
『それと陽菜に電話した?』
「まだ」
『あんたねえ』
「今日するよ」
『本当に?』
「するって」
『私が確認の電話するからね』
「小学生じゃないんだからやめてくれ」
『三十二歳にもなって妹に連絡しろって母親に言われてる時点で似たようなもんだよ』
「理屈がおかしいだろ」
『じゃあね』
一方的に切れた。
冬真はスマートフォンを見つめ、ため息をついた。
白菜を棚へ戻した。
代わりに玉ねぎとジャガイモを取る。
比較的値上がりが小さい。
そのとき、野菜売り場の端から声が聞こえた。
「お客様、一度に五袋はご遠慮いただけますか」
振り返ると、五十代くらいの女性がジャガイモの袋を大量にカゴへ入れていた。
「だって制限って書いてないでしょう」
「現状では購入制限は設けていないのですが、ほかのお客様にも商品が行き渡るよう、ご協力をお願いしておりまして」
「制限してないなら買っていいってことでしょう?」
「規則上は禁止ではありませんが……」
「じゃあ何が問題なの」
店員が困り果てている。
周囲の客がちらちら見ている。
女性は気づいているのかいないのか、さらに玉ねぎを二袋カゴに入れた。
「うちは家族が多いのよ。それに来週もっと高くなったら困るでしょう。今日買える人が今日買う、それだけじゃない」
誰かが小さく呟いた。
「みんな困るんだけどな」
女性が振り返った。
「今、何か言いました?」
空気が変わった。
ほんの少し。
昨日までなら笑って流せた程度のことで、他人同士が睨み合っている。
冬真はその場から離れた。
まだ食料はある。
店には肉も魚もパンもある。
棚が完全に空になったわけでもない。
それなのに、人間の態度だけが少しずつ変わっている。
レジには長い列ができていた。
前に並ぶ老人が店員に尋ねる。
「米、今日入るの?」
「本日の追加入荷はございません」
「明日は?」
「申し訳ございません。明日の数量もまだ確定しておりません」
「じゃあいつ来るんだい」
「現在確認中です」
冬真は首を伸ばして米売り場を見る。
昨日はまだあった。
今日はほとんど何もない。
棚に残っているのは高級ブランド米の小袋だけだった。
「米まで……」
レジを終えて外へ出る。
冷たい風が吹いていた。
六月の午後七時前。
本来なら日が長く、少し蒸し暑いくらいの時間だ。
今日はコートの襟を立てなければ歩けない。
駅前ではテレビ局のスタッフが街頭インタビューをしていた。
「この寒さについて、どう感じますか?」
若い男性が笑顔で答えている。
「まあ、暑いよりいいんじゃないですか。去年はマジで死ぬほど暑かったんで。今年はエアコン代浮きそうです」
「食料品の値上がりについては?」
「え、そんな上がってるんですか? 俺あんまり自炊しないんで分かんないですね。コンビニ弁当あるなら別に困らないです」
冬真は通り過ぎた。
悪意などない。
昨日までの自分なら、似たようなことを言っていたかもしれない。
自宅へ戻り、買ったものを冷蔵庫へ入れたあと、約束通り陽菜へ電話をかけた。
三回鳴って切れた。
「出ないか」
それで用事は済んだことにしようと思ったが、一分ほどして折り返しが来た。
『何?』
妹の第一声は愛想がなかった。
「何って、電話したから」
『だから何の用? お兄ちゃんから電話来るなんて怖いんだけど。お母さん倒れた?』
「何でそうなるんだよ」
『だって普段連絡してこないじゃん』
「母さんに電話しろって言われた」
『ああ、やっぱりね。自主的じゃないんだ』
「電話しても文句言われるなら、もう切るぞ」
『待って待って。そこまで怒らなくてもいいじゃん』
陽菜は笑った。
兄妹なのだから似た声の部分もあるはずなのに、妹の方がずっと明るく聞こえる。
「そっちはどうだ」
『何が?』
「寒さとか、買い物とか」
『寒い。最悪。会社で暖房つけてるよ。六月なのに』
「食料は?」
『何で急にそんな話?』
「スーパー、野菜なくなってるぞ」
『ああ、それね。さっきSNSで見た。トマト一個五百円とかでしょ?』
「こっちは四個で千二百円だった」
『買ったの?』
「買うわけないだろ」
『お兄ちゃん、トマト食べるんだ』
「そこかよ」
陽菜が笑った。
その笑い声を聞いていると、少しだけ安心した。
『でもこっちはまだ普通かな。コンビニもあるし、宅配も来るし。ただ会社の子がスーパー行ったら米がなかったって言ってた』
「お前、家に米ある?」
『二キロくらいかな』
「少ないな」
『一人暮らしなんだから普通でしょ。なくなったら買えばいいし』
冬真は黙った。
『何?』
「いや」
『その沈黙やめて。怖いんだけど』
「明日買っとけよ」
『米を?』
「できればな」
『お兄ちゃんまで買い占め老人みたいなこと言わないでよ』
「一袋でいい。買い占めじゃないだろ」
『分かったよ。でもそんなに心配?』
冬真は答えに迷った。
心配なのか。
まだ自分でも分からない。
「ちょっと気になるだけだ」
『ふうん』
「母さんの畑も霜でやられてるらしい」
『え? あの畑?』
「トマトとナスが駄目かもしれないって」
『お母さん、楽しみにしてたのに』
「日曜に見てくる」
『私も行こうかな』
「仕事は?」
『日曜休み。どうせお母さん、私が行ったら喜ぶでしょ』
「俺だけだと喜ばないみたいに言うなよ」
『お兄ちゃんだけだと支柱直させて終わりだよ』
「否定できないのが腹立つな」
陽菜がまた笑った。
しばらくどうでもいい話をした。
仕事が忙しい。
上司が面倒だ。
同僚が結婚する。
母親が最近やたら健康食品を送ってくる。
たった十分ほどだった。
それでも、半年近くまともに話していなかった兄妹には、少し長い電話だった。
切る直前、陽菜が言った。
『ねえ、お兄ちゃん』
「何?」
『本当にヤバくなったら言ってよ』
「何が」
『食料とか、寒さとか。お兄ちゃん、こういうの妙に気づくの早そうだから』
「俺は気象学者じゃないぞ」
『そういう意味じゃなくてさ。機械壊れそうなの見つける仕事してるんでしょ』
「まあな」
『じゃあ世界が壊れそうなのも分かるかなって』
「馬鹿言うな」
『冗談だよ。じゃあ日曜ね』
「ああ」
電話が切れた。
冬真はしばらくスマートフォンを見ていた。
「世界が壊れる、か」
冗談としては、あまり面白くなかった。
テレビをつける。
ニュースでは農産物価格の高騰を扱っていた。
『今回の低温の影響で、国内各地の農作物に被害が出ています。ただ政府は、現時点で食料供給全体に大きな問題が生じる可能性は低いとしており、消費者に冷静な購買行動を呼びかけています』
画面には農林水産関係者が映る。
『備蓄もございますし、輸入による補完も可能です。過度な買いだめは、かえって流通の混乱を招きます』
冬真はソファに座りながら聞いていた。
もっともな話だと思う。
買い占めれば混乱する。
必要以上に買わない方がいい。
けれど、スーパーで聞いた夫婦の会話が頭に残っていた。
国内で足りなければ、外国から輸入すればいい。
その直後、ニュースが海外情勢へ移った。
『続いて海外です。アメリカ中西部では異例の寒波が続き、農業への影響が懸念されています』
画面に白い農地が映る。
『アイオワ州、イリノイ州など複数の州で霜や降雪が確認され、一部地域ではトウモロコシ、大豆の苗に深刻な被害が出ているとの情報があります』
映像が切り替わる。
今度はヨーロッパ。
『フランス北部ではブドウ畑が凍結し、ドイツでも小麦の生育への影響が報告されています』
さらに中国。
『中国東北部でも異常低温が続いており、一部農村では農作物への被害が拡大しています』
冬真はリモコンを持ったまま動かなかった。
国内で足りなければ輸入する。
では、輸入元でも足りなかったら?
アメリカでも。
ヨーロッパでも。
中国でも。
同じように作物が駄目になったら。
世界中で同時に食べ物が足りなくなったら。
「いや……そこまではないだろ」
声に出して否定した。
人類はそんなに脆くない。
農業技術もある。
備蓄もある。
物流もある。
国際協力だってある。
一年の不作くらいなら何とかなるはずだ。
そう思う一方で、テレビ画面の端に表示された速報が目に入った。
『速報 カナダ主要農業州で異例の凍結被害』
冬真は立ち上がった。
キッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。
牛乳。
卵。
玉ねぎ。
ジャガイモ。
キャベツ。
肉。
冷凍食品。
普通に食べ物がある。
それなのに、今朝見たときとは違って見えた。
冷蔵庫に食べ物が入っている。
それが当然ではない世界を、冬真はまだ知らない。
スーパーへ行けば食べ物がある。
金を払えば買える。
翌日になれば商品が補充される。
その仕組みが永久に続くと、誰が約束したのだろう。
冬真は冷蔵庫の扉を閉めた。
窓の外では、細かな雨が降り始めている。
夜の気温は四度まで下がる予報だった。
六月四日。
まだ東京のコンビニは二十四時間営業していた。
電車も走っている。
給料も振り込まれる。
ネット通販なら翌日に荷物が届く。
誰も飢えていない。
誰も凍えて死んではいない。
文明は何一つ壊れていなかった。
ただスーパーの野菜売り場から、少しだけ緑色が減った。
後になって冬真は思うことになる。
人類の終わりというものは、映画のように爆発音とともに始まるわけではない。
その始まりは案外静かで、ほとんどの人間が気にも留めない。
昨日まで百九十八円だったキャベツが、今日は五百円になった。
いつも積まれていたトマトが、棚から少し減った。
そんな程度の出来事から、世界は壊れ始める。
そして、この日の夜。
日本から何千キロも離れた国で、後に世界の食料事情を大きく変える決定が下されようとしていた。
主要な穀物輸出国の政府が、自国民への供給を優先するため、小麦とトウモロコシの輸出制限を検討し始めていたのである。
第14話 買い占めが飢饉を早める 東雲征一郎の動画が公開された翌朝、神崎冬真が自宅近くのスーパーへ着いた時には、保存食品の棚の半分以上が空になっていた。 まだ午前九時半にもなっていない。 開店から三十分ほどしか経っていないはずだった。 缶詰。 乾麺。 パスタ。 レトルト食品。 乾燥豆。 粉末スープ。 長期保存パン。 売り場によって差はあるものの、普段なら一日かけてもなくならない量の商品が、一気に消えている。「早すぎるだろ……」 冬真は買い物かごを持ったまま立ち止まった。 店内には普段より明らかに多くの客がいる。 大型カートを使っている人が目立つ。 中には缶詰を何十個も積んでいる人もいた。 その横を、店員が大きな紙を持って走っていく。『保存食品は一商品につきお一人様三点まで』 貼り紙を見た瞬間、近くの客から不満の声が上がった。「三つだけ?」「家族五人いるんだけど」「同じ種類が三つってことですよね?」「違う味ならいいの?」 店員が説明する。「同一商品につき三点までとなります。例えばサバ味噌缶三点、サバ水煮缶三点という形になります」 それを聞いた中年女性が、すぐ棚へ戻った。「じゃあ種類変えればいいのね」 冬真はその背中を見た。 ルールというものは、作った瞬間から抜け道を探される。 悪意とは限らない。 家族のために少しでも多く確保したい。 ただそれだけなのだろう。
第13話 三か月後、食べ物がなくなる 七月五日の朝、神崎冬真は電車の中で、一枚の給食写真を見ていた。 SNSで急速に拡散されている、小学校の給食を撮影した写真だった。 白いご飯が小さな茶碗に半分ほど。 具の少ない味噌汁。 煮豆。 漬物。 それだけだった。 投稿者の説明によれば、以前は魚や肉のおかず、牛乳、デザートまでついていたという。食材調達が難しくなったため、一時的に献立を変更したらしい。 写真の真偽を冬真が確認できるわけではない。 だが、似たような報告は一件ではなかった。 別の学校では牛乳が週二回に減った。 別の自治体ではパン給食を中止し、備蓄米を使用した米飯へ切り替えた。 肉類の使用回数を減らした自治体もある。 卵を使用する献立が消えたという書き込みもあった。「子供から先に減らすわけじゃないんだろうけどな……」 冬真はスマートフォンを閉じた。 自治体だって、好きで給食を減らしているわけではない。 決められた予算がある。 その中で食材価格だけが二倍、三倍になれば、今までと同じ献立を維持できるはずがない。 それでも、子供の皿が小さくなる写真は、大人向けの商品が値上がりするニュースよりずっと胸に刺さった。 向かいの席には、小学生くらいの男の子と母親が座っていた。「今日も給食、少ないかな」 男の子が言う。 母親はスマートフォンを見ながら答えた。「どうだろうね。でも朝ちゃんと食べたでしょう」「お昼までお腹すくよ」「帰ってきたら何か作るから」「唐揚げがいい」
第12話 肉が高級品になった日 七月四日の朝、神崎冬真は冷蔵庫を開けたまま、しばらく豚肉のパックを見つめていた。 昨日買ったばかりの切り落とし肉だった。特売でも高級品でもない、ごく普通の国産豚肉である。それなのに値札には、以前なら少し良い焼き肉用の肉でも買えそうな金額が印字されていた。「百グラム三百八十九円……」 記憶違いでなければ、数週間前までは二百円前後だったはずだ。 牛肉なら分からなくもない。 だが豚肉までこの値段なのか。 冷蔵庫の奥にある卵にも目を向ける。 十個入りで八百円近くした。高すぎると思いながらも、最後の一パックだったので買ってしまったものだ。 牛乳も一本三百円を超えている。 食パンも高い。 冷凍食品も高い。 今までは野菜だけだった。 その次に米。 そして小麦粉。 気づけば、食卓のほとんど全てが値上がりしている。 冬真は豚肉を冷蔵庫へ戻した。「朝から肉食うの、もったいないな」 口に出した瞬間、自分で嫌になった。 以前なら、肉を一食分使うのに「もったいない」などと考えなかった。 食べるために買ったものなのだから、食べればいい。 それが当たり前だった。 だが今は、その一パックを今日使ってしまったら、次に同じ値段で買えるか分からない。 もっと高くなるかもしれない。 そもそも売っていないかもしれない。 そう考えてしまう。 結局、朝食は米と味噌汁、梅干しだけにした。 母親から持たされた梅干しを一つ箸で割りながら、冬真はテレビをつけた。 朝のニュースでは、畜産
第11話 備蓄米が来た日 七月三日の朝、神崎冬真が目を覚まして最初に確認したのは天気ではなく、政府の備蓄米放出に関するニュースだった。 数日前までなら、起床後に見るものといえば時刻と電車の運行情報くらいだった。ところが今では気温、降雪、道路状況、食料価格、燃料供給、穀物輸出規制まで確認してからでなければ、一日を始める気になれない。 習慣というものは恐ろしい。 世界が変われば、人間の「普通」も驚くほど早く変わる。 テレビでは朝六時台から、政府備蓄米を積んだ大型トラックが倉庫から出発する映像を繰り返し流していた。『政府は本日より、第一弾としておよそ二十万トンの備蓄米を市場へ放出します。大手卸売業者を通じ、順次全国の小売店へ供給される予定です』 画面の中では、巨大な倉庫からパレット単位で積み出される米袋が映っている。 冬真はコーヒーを飲みながら、その光景を見ていた。「二十万トンって、多いのか少ないのか分からないな」 数字が大きすぎる。 一人暮らしの人間にとって米五キロなら感覚で分かる。 十キロなら一か月以上持つ。 だが二十万トンと言われても、それが日本全体で何日分なのか、冬真には実感できなかった。 番組には食料経済の専門家が出演していた。『今回の放出量だけを見れば、直ちに米が尽きるような状況ではありません。むしろ重要なのは流通です。備蓄米は国が保管しているだけでは消費者の食卓に届きません。精米、袋詰め、輸送、小売店への配送という工程が必要です』 司会者が質問する。『つまり、備蓄が十分あってもスーパーでは品切れが続く場合がある?』『当然あります。現在は道路状況の悪化や燃料問題によって物流能力そのものが低下しています。食料の量だけではなく、それを動かす能力も考えなくてはいけません』 冬真はコーヒーカップを置いた。
第10話 政府緊急会見 七月二日の朝、東京の雪はまだ完全には消えていなかった。 大通りでは除雪車が走り、駅前には踏み固められた雪が黒く汚れて残っている。道路の中央こそ車が通れる程度には回復していたが、歩道には凍結した箇所が多く、転倒して救急搬送される人が相次いでいると朝のニュースが伝えていた。 神崎冬真は窓辺に立ち、昨夜より少し薄くなった雪景色を眺めながらコーヒーを飲んでいた。 テレビでは、午前九時から政府が緊急記者会見を開くと繰り返し告知している。『政府は昨日から関係省庁による対策会議を続けており、食料供給、電力、燃料、交通網、農業被害などについて総合的な対応方針を発表する予定です』 冬真はカップを置いた。 午前九時。 いつもなら会社にいる時間だ。 だが今日は、高木課長から「午前中は自宅待機」と連絡が来ていた。鉄道は一部復旧したものの、運行本数が少なく、会社側も現場対応要員以外の出勤を抑えている。 昨日まで「通常勤務」を維持しようとしていた会社が、一日で方針を変えた。 それだけでも事態の深刻さが伝わってきた。 スマートフォンが震える。 柴田から社内チャットだった。『神崎さん、生きてます?』『生きてる』『うち子供大喜びです。庭で雪だるま作ってます』『元気だな』『嫁は泣きそうな顔してますけどね』 冬真は少し眉をひそめた。『何かあった?』『スーパー昨日から閉まってるんですよ。道路凍って配送来てないみたいで』『食料あるのか』『今のところは。親父が送ってきた米十五キロが神に見えます』『大事に食え』『そうします』 少しして、柴田からもう一通来た。
第9話 東京、七月、雪 六月十二日の朝、神崎冬真はカーテンを開けたまま、しばらく窓の前から動けなかった。 昨夜の天気予報では、早朝に霙が混じる可能性があるとは言っていた。 それでも積もるとは聞いていない。 向かいのマンションの屋根が白い。 歩道の植え込みにも薄く雪が乗り、道路脇に停められている車の屋根は、まるで冬の朝のように白くなっていた。 さすがに路面までは積もっていない。アスファルトに落ちた雪は水に変わり、排水溝へ流れている。 それでも六月十二日だった。 冬真はスマートフォンを手に取り、外を一枚撮った。 撮ってから、自分が何のために写真を残したのか分からなくなった。「陽菜にでも送るか」 メッセージアプリを開くより先に、陽菜から写真が送られてきた。『こっちも白い。笑えないんだけど』 冬真は自分の写真も送った。『同じだ』 すぐ電話がかかってくる。『お兄ちゃん、今日会社行く?』「行くよ」『普通に?』「電車動いてるからな」『テレビ、不要不急の外出控えろって言ってるよ』「それ、大雪の地域だろ。東京はこの程度なら問題ない」『この程度って、六月に雪積もってるんだけど』「季節の話と交通の話は別だろ」『会社員って怖いね』「お前は?」『うち、午前中在宅になった。午後は状況見て判断だって』「いい会社じゃないか」『こういう時だけね。普段は編集修正、夜中でも飛んでくるけど』「在宅でも仕事は仕事だろ」『そういう正論、朝からいらない』 冬真は少し